「死を考える」を読んでみた

東大文学部を出て作家になられた、
中野孝次氏の、表題「死を考える」を読んでみた。

別に病んでる訳ではないのでご心配なく笑
普段から、こういうテーマにも好奇心が湧いてしまうタチなもので…

本書には、古代ヨーロッパを始め中国、日本と
世界的に死がどう捉えられて来たかを紹介しながら、現在の日本での死の変容が指摘されている。
つまりは、現代日本では、死が朧げになってしまっているのではないかということなのだが…。

今まであまり真剣に死について考えたことがなく、
というか考えられず(未知すぎて)、
漠然としたものだったので、読んでみてよかった
と思う。

この本を読んでみて私なりに学んだことを
結論から言ってしまうと、それは
「死について考える暇があったら、生について
一生懸命考えろ」というものだ。

孔子の、「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」が1番私にとってピンとくるが、
つまりは、今現にいる生についても理解がままならないのに、死について知ろうと思っても無理じゃないかということだと解釈している。

死ぬということは、生きている人には誰にもわからないこと。だって、経験してないんだもの。
でも、死が必ず存在することは、死体を目にすることで理解できる。
でもそれは、死そのものではなくて、死というものによって生じる残骸あるいは物体。
死が何かという解にはなり得ない。

そして、生と死はセットで考えられる場合が多いが、ところによっては、それは全く個別に存在するもの。
生は生として存在し、死は死として存在するもの。
死を恐れて生を生きるのではなく、生を精一杯生きればいいのだ。
大抵死を恐れている時というのは、精一杯生きていない時で、精一杯生きているときというのは、
そんなことを考えている暇はないとのこと。
確かに、普段の生活で死について考えるって、
結構暇を持て余した状態のような気もする。
だって、日々の生活ではもっと色々考えたりやらなきゃいけないことがあるからね。

では、精一杯生きるとは、どういうことか。
それは、手帳を予定でぎっしり埋めることでもなければ、カレンダーとにらめっこすることでもないとのこと。
精一杯生きるとは、自分のために、一生懸命取り組むということ。
会社のためとか、お金のためとか、地位のためとか、そういったもののためにあくせくすることでは決してないのだとか…。
自分の魂を磨くことに一生懸命取り組むことこそが、精一杯生きるということ。

うーむ、なるほど。
社畜にならなくていいということか、それはすごく
気持ちが楽になるメッセージだ…。
将来のために今を犠牲にする生き方も、
個人的には好きではないので、この内容は
とても嬉しい。

自分は将来どうなりたいのか、なるのかと
悶々と考えていたが、それは必要なく、
「今」をどう生きるか、それも自分のためにどう
生きるかのみに注力すればいいと知って、
なんだかホッとした。

過去と現在と未来を、無理やり繋げる必要はないのだから…!